1 風を見た人

 『水色の恋』のシングル盤のB面の曲だが彼女を知る上で欠くことのできないもの。前半は音域が低く決してうまく歌っているとはいえないが、特に後半は明るいと言われる彼女の中にある激しい情熱を垣間見させてくれる。この激しさが、実は彼女の曲の明るい表面をひそかに支え、あの類のない生命力を与えるのだ。


2 ひとりじゃないの (シングルバージョン)

 『水色の恋』『ちいさな恋』でためらいがちにふくらんできた小さなつぼみが、一気に花開かせた歌。この歌で彼女の最も魅力的な面が全面的に現れ「天地真理の世界」が確立した。人々に「天地真理」を強烈に印象づけその後の彼女のイメージを定着させたと言っていい。私自身、この歌をはじめて聴いたときの胸躍る爽快感はいまでも忘れられない。心の中のもやもやが消えて、身体が軽くなり、心が大空の中に舞い上がっていくような気分であった。それはこの歌の明るさ、はつらつとした快活さによる、と私も当時は考えていたし、多くの人が「明るく元気な真理ちゃん」というイメージをいだいたのだと思う。
 しかし、30年ぶりに聴いたこの歌は以前のイメージとはかなり違っていた。今流行の歌は当時の歌に比べると一般にずっとテンポが速く、私たちもそれに慣れてしまっているということがあると思うが、『ひとりじゃないの』も当時のイメージからするとずっとゆっくりに感じる。しかも彼女はこの曲をポルタメントを多用して歌っていたのだ。「あなたが微笑みを」という出だしから「ほほ〜えみ〜をー」とつなげて歌っている。彼女のうたは概してフレーズの区切りの音が短いと思っていたのだが、ここでは意外に引きずり気味に歌っているのだ。「ひとつ・わけーてくーれてー」「わたしがこば・しり〜にーかさをさし・かけた〜らー」という具合である。とはいえ、けっして重くなってはいない。むしろ当時ほとんどの人は逆の印象を持っていたはずである。それは、一つは何といっても彼女の声の特質であり、またこうした歌い回しを軽快なリズムの中にうまく組み込んで歌っているからである。しかし逆にこのような歌い回しによって実は明るさに寄り添うような微妙な陰影が生まれていたのだ。早いテンポに乗せてリズミカルに歌っているようで、実は局面ごとに変化する多彩なニュアンスが歌いこまれていたのだ。ただ彼女の場合、そういう細かな表情の変化がこれ見よがしに表に現れることはない。聴いている側は心地よい曲の流れに自然に乗っているのだが、実は気づかないうちに彼女のうたの細やかなニュアンスが我々の情感に働きかけているのだ。
 ともあれ、こうしたさりげないが多彩なニュアンスの変化がこの歌に生命力を与え、ただ「明るく元気」ではない、湧き出るようなよろこびと陶酔が私たちをとらえるのである。その意味でやはり最も「天地真理らしい」歌と言うことができる。
 この歌の録音には4種類のものがある。上で述べてきたことはシングル盤についてであるが、LP盤ではアレンジ自体が違っている。作曲者森田公一自身の編曲はシングル盤の場合より軽くシンプルで、それだけに彼女のうたもシングル盤のように引きずった歌い方は少なく、実に軽快でリズミカルである。たとえば「草原も輝く」というフレーズもシングル盤では「かがや〜〜く」と特徴的な歌い方だが、こちらは「かがや−く」と素直に歌っている。細部にこだわらない、より自然な流れがあり、あふれるようなよろこびということではシングル盤以上かもしれない。
 このLP盤と同じアレンジで歌っているのが最初のライブ盤(「天地真理オン・ステージ」)で、バックで演奏しているのが森田公一のグループなので当然なのだろう。だが、ここでのうたはむしろシングル盤に近く、細部のニュアンスを大事にしている。シングル盤と違うのは、大声援の中で歌っているにもかかわらず、まるでささやくように歌っているということである。もちろんそう小さな声で歌っているというわけではないが、たとえば「ひとりじゃないって」と歌うところも力まず、末尾も「てー」と伸ばさず、軽くふわっと切ってしまっている。そして次の「すてきなことね」を軽くはあるが思いを込めて歌っている。全体としておしゃれで、はかなささえ感じさせる透明感が漂っている。
 もうひとつのライブ盤(「私は天地真理」)はいずれとも違う歌い方になっている。細部はあまり気を使わず、むしろ勢いでストレートに歌っている。これについては「私は天地真理」
 

2´ひとりじゃないの (歌詞違い版) 

 プレミアムボックスで初めて存在を知ったバージョン。どこが違うかというと、「ふたりでゆくって」の次が「すてきなことね」ではなく「すてきな旅ね」となっているところ。アレンジはアルバム版と同じ森田公一のもので歌唱の特徴もアルバム版とほぼ同じで、はじけるようなよろこびがあふれるうたであるが、このバージョンの出現で長年の疑問が氷解した。それは「ひとりじゃないの」の各バージョンがどうして生まれたのかということなのだが、おそらく、この「旅」バージョンが最初の原型ではないだろうか。しかし、実際聴いてみると、たしかに「すてきな旅ね」ではちょっと座りが悪い。そこで歌詞を修正してアルバムバージョンができたのではないか。さらにシングル発売のためにはアレンジがシンプルすぎて印象が弱いということでアレンジを変えてシングルバージョンが生まれた、と推測できる。
 もうひとつ、このバージョンによってはっきりしたのは、この曲が旅立ちの歌だということ。通常歌詞バージョンでも「旅の始まり」という言葉はあったので、それは感じ取れないことではなかったのだが、「ふたりの」という方にひきずられて、「恋」の方の印象が強くなっていたように思う。しかし「旅」が繰り返されると、むしろ青春の旅立ちという性格をもっていたことがわかる。ではどうして「こと」になったのか?いろいろ考えられるが、まず、「ひとりじゃないってすてきなことね」に対して「ふたりでゆくってすてきな旅ね」と「こと」の繰返しを避けたという面もあったと思うが、実際曲をつけてみると、かえって座りが悪かった、という純粋に印象の面があったのではないか。また、やはり歌として聴いてみると、“ふたりでゆく旅”というのが、青春の旅(遍歴)という意図より恋人との日々のような意味合いが強くなってしまった、ということもあったかもしれない。理由ははっきりとはわからないが、結果的には「こと」になって人と人とのより普遍的な関係として歌われることになったのではないだろうか。真理さん自身、この曲を恋人同士のこととしてより、人は「ひとり(孤独)じゃない」という気持ちで歌っていたと、語っていたことがあった。そう言う意味では歌詞の上では少し印象が薄くなったが、やはりこの曲は青春の旅立ちの歌というべきだろう。


3 恋する夏の日(シングルバージョン)

 私はシングル盤は買ったことがなく、天地真理のレコードもアルバムだけしか買っていなかった。したがって、『恋する夏の日』のアルバム・バージョンとシングル・バージョンが違うこともプレミアムボックスで初めて知った。ラジオで聴いていれば分かったのだろうが、そういう機会もあまりなかった。だからアルバム・バージョンの「恋する夏の日」だけを聴いて、ややニュアンスが物足りない気がしていた。しかし、シングル・バージョンを聴いて、実は非常にニュアンス豊かなうただったのだとあらためて感じた。
 アルバム版に比べ効果のつけ方の違いもあるがなめらかに朗々と歌っている。伸ばすところは悠然と伸ばして歌っているように感じる。たとえば「(今年の夏)忘れない―――」「(心に秘め)いつまでも―――」というように。もちろんどの部分をとってもニュアンスは豊かで、「あさもや」「来るわー」「心に秘め」「二人のため」「しあわせよー」「美しく」「残るでしょう」など陶然とする歌唱が続く。
 彼女はこの曲で絶頂へ駆け上がるのだが、それにふさわしい風格ある堂々たる歌唱である。


4 想い出のセレナーデ(シングルバージョン)

 いわゆる“哀愁路線”に転換したはじめての作品で、天地真理最後の大ヒット曲となった。しかし私はこの曲を当時あまり好きでなかった。曲調も歌う表情もあまりにそれまでのイメージからの“脱皮”に性急で、わざとらしさを感じていたからだ。
 ステージでの表情もそれまでとは一変してまったく笑顔を見せず、かたい表情で終始した。たしかに曲の性格からすれば、それまでのような笑顔ではそぐわないだろうが、あそこまで極端にしなければならないだろうか、と私は疑問だった。
 ただ、このシングル盤は歌いこんでいない時期だけにむしろ明るさがあり、テンポもインテンポで軽快さがある。しかも細部はニュアンス豊かで彼女のうたの良さを充分保っている。たとえば、「(坂を)のぼったら」での影のつけ方、「もう(知らない人)」の心の込め方 「(窓に)咲いた 花も」のゆるやかな起伏等、魅力は尽きない。暗くのめり込むのではなく、明るさの中ににじみ出してくる哀しみこそ彼女だけが歌えるうただとすれば、このシングル盤やほぼ同じ表現のライブ盤(『オンステージ』)こそこの曲の最良の表現と言えるかもしれない。
 もちろん、その後、歌いこまれ深められた表現も素晴らしかったし、感動もするが、大上段に構えないうたの方に私は愛着を感じる。


5 わたしの場合

 『想い出のセレナーデ』のシングルB面。学校を卒業して数年後、かつての仲間たちのそれぞれの人生を思う歌。テーマは恋ではなく友情であり、特別ではない普通の若者の人生だ。こういうシチュエーションの歌は珍しいと思うが、彼女の媚のないやや中性的な声はこうしたテーマにぴったりで、青春に懐かしみながら別れを告げる20代半ばの若者の心を誇張なく共感をもって描いていく。音域も彼女本来の音域で、無理がなく、一言一言に心をこめながらも、伸び伸びと自然に歌っている。彼女はこのあと次第に高音域に移行し、細い声になっていくが、私としてはこの音域の歌をもっと歌ってほしかったと思う。         

6 初めての涙(シングルバージョン)

 ミュージカルダイジェスト盤とはかなり違う歌い方をしている。ダイジェスト盤での「初めての涙」はドラマのシチュエーションを踏まえて劇的だが、このシングル・バージョンは、まだ歌い込まれていないということもあるが、それ自体で独立した歌としてバランスのとれた美しい表現になっている。たとえば「この気持ち」のところもダイジェスト版やその後のライブでは激しいくらいの想いをこめて歌っているが、ここではもっとデリケートな心の動きがなだらかな旋律線で表現されている。情熱の強さより、思春期のあこがれと不安が瑞々しく表現されていると言えるだろう。


7 君よ知るや南の国(シングルBバージョン)

 これも「初めての涙」と同様、ミュージカルの場面を離れて、それ自体で独立した歌として歌われていて見事な造形を見せる。
 冒頭のひそやかな出だしからはじまり、前半はポルタメントを多用して、まだ見ぬ南の国へのあこがれを歌う。たとえば、「君よ し〜るや 南の〜国」から始まり、「薫るか〜ぜに オレ〜ンジの花」「青いそ〜らよ ひか〜りあふれて」というように。これだけポルタメントを多用して清潔感を失わないのは彼女の声の特質と、基本に楽譜を逸脱しない歌い方があるのだろう。ともかくこれが実に効果的に<あこがれ>を感じさせるのだ。そして後半「私は歌う」からはオペラチックと言っていいくらいのスケールの大きな展開となり、どんどんハイテンションになって最後は力強く輝かしい声で終わる。


8 木枯らしの舗道

 『想い出のセレナーデ』に続く“哀愁路線”第2弾だが、『想い出のセレナーデ』のような大ヒットとはならず、初めてベストテンに入れなかった。私も当時、少し暗すぎるのではないかと感じていたが、『想い出のセレナーデ』に比べて地味だったということだろう。振付が垢抜けしていなかったという視覚的要素もあったと思う。
 しかし、今聴くと実にいい曲だ。音域はやや低めで、それが地味な印象にも通じていたと思うが、これが彼女の本来の音域で、どこにも無理がなく余裕をもって歌っていて実に美しいメゾだ。ただ、その無理のなさが、印象を弱めることになっていたのかもしれない。
 彼女の表現は少しも芝居がかってはいないが、一言一言を丁寧に丁寧に歌い、失われたものへの愛おしさが切々と伝わってくる。
  

9 ブランコ

 『木枯らしの舗道』のシングルB面。夕暮れの公園を背景に 遠くにいる人へのひそやかな想いを歌う。「夕陽のスケッチ」や「オレンジ色の旅」でも夕陽の色に託して燃えるような熱い想いが歌われているが、この曲ではそれがもう少し抑えられ内面化された形で歌われている。
 独特の詩情をもった、あまりほかにないタイプの佳曲であるが、この曲を歌えるのは天地真理以外には考えられない。この曲は感情をこめすぎては情景を客観的に描くことはできない。しかし、無機的に歌ったのでは繊細な詩情は表現できない。彼女のうたは、表面は淡々としっとりと歌っていながら、声そのものに熱い想いがこもっていて、薄暮のような微妙な陰影を生み出していく。 


10 愛のアルバム

 “哀愁路線”第3弾だが、少し明るさが見える曲調。ほのかな哀愁はあるが、それは哀しみではなく愛のひたむきさ〉をあらわすものになっている。
 この曲の録音は75年2月のフランス一人旅に出発する直前にあわただしく行われたようだ。なかなかOKにならず難航したらしいが、聴いただけではそんなことは全く感じさせない、むしろ溌剌としたうただ。それはやはり念願のフランス旅行に胸ふくらませていたからだろうか。TBSの真理ちゃんシリーズも区切りがつき、時間的な束縛もなくなって気持ちの面での余裕が生まれていたからかもしれない。結果かから見ればこの旅行は彼女の人生の大きな転機となってくるのだが、出発前のこの時点では希望に満ちていたのだろう。  
 したがってこの歌は前2作とはちがって、自然に、伸び伸びと歌っている。歌いこまれた後のライブ録音と比べるとこのシングル版は細部に粗さがあってベストとは言えないが、逆にその伸びやかさが当時の彼女の気持ちを反映していて、それが魅力ともいえる。後で実に巧みな表現で歌う「よろこびと かなしみを」のフレーズをここでは作為なく力いっぱい歌っているがそこには彼女の青春の輝きも感じられる。


11 ひとかかえの愛

 3年近い“休養”のあと、本格的復帰へ向けての準備の中でつくられ、実質的に復帰後最初の録音となった曲。どちらが前か経過は知らないが、美顔器のCMの音楽として、また復帰へ向けてのプロモート用として使われた。また、長いブランクにもかかわらずファンクラブに残って彼女の復帰を待ち続けたファンへの感謝の贈り物としても配布された。
 私は初めてこの曲を聴いたとき、彼女の声のあまりの素晴らしさにすっかり心を奪われてしまった。なんとやさしくあたたかいのだろうか!以前からの特質が、休養によってよりつややかになり、理想と言っていい声になっていた。
 曲はCM用だったからだろうか、若干短いのが物足りないが、さわやかで、彼女の復帰の喜びが素直にあふれてくる佳曲である。セリフにも彼女の率直な喜びがあふれている。私は、この曲をもう少し長めにして復帰第一作にしていたら。むしろ成功していたのではないかと思うこともある。それほどに魅力あふれる歌だ。


12 夏を忘れた海(プロモーション版)

 「ひとかかえの愛」とカップリングで復帰へ向けてのプロモート用に録音された。以前の「夏を忘れた海」とはアレンジも変えて、別の曲のような印象になっている。
 休養前の「夏を忘れた海」は詩的な曲と言う印象が強いが、このバージョンはむしろ歌謡的だ。特に2番では以前の彼女にはあまり見られなかった語るように歌うところや歌い崩しているところがかなりあり、3年の歳月を感じさせる。


13 愛・つづれ織り

 1979年の復帰第1弾となった曲。作詞は松本隆で日記風のユニークな歌詞で、30歳を目前にした女性の、歌謡曲的な意味での“大人”とは違う、普通の大人の女性の心が歌われている。また「トレンチコート きゅっとしぼって 行方知れずが 帰ってきたわ」というように彼女の状況に合わせており、知的で良くできた詞だ。
 作曲はもちろん彼女を最もよく知る森田公一で、明るいが、全盛期の歌よりほんのちょっと湿リけもある、さわやかでおしゃれな曲である。彼女のうたも、ソフトで生き生きした声、流麗で心地よいリズム、彼女らしく大げさでないデリケートな表情などそれぞれがすばらしい。
 結果的に大ヒットとはならなかったが、愛すべき佳曲である。


14 旅人は風の国へ

 『愛・つづれ織り』のB面だが、こちらをA面にした方が成功したかもしれないとさえ思える魅力的な曲である。
 彼女にしては珍しく、失意の人を慰め励ます“人生の応援歌”のような曲。「自分を捨てないで 涙より微笑みを」というところなど、長い闘病生活から不屈の意志で戻ってきた彼女自身の気持ちも込められているだろう。音域は以前より高めで、声も細めだが、そのやさしさは心にしみてくる。「愛の三叉路に 戻り道はない」と言うところのきっぱりとしたうたには彼女の不退転の決意も聴きとることができる。


15 初恋のニコラ 

 シルヴィ・バルタンのヒット曲として知られているが、歌詞は単なる訳詞ではなく、かなり違う内容になっているようだ。シルヴィ・バルタンとの表情の違いにはそういう事情もあるようだ。
 しかし、たとえば冒頭のところなどそれまでの彼女にはなかったような表情を見せる。それはこみあげる感情をぎりぎりまで抑えた平坦で乾いた表情で、2番では虚無的な感じさえある。惜しいのはその後の経過句で、彼女の声の明るさがやや浮き上がったような印象になっている。2番では「もう」の絶妙な表現でそれをカバーしているが、特に1番ではそうした印象がある。しかし、後半「ニコラ ニコラ ・・・」は一瞬の緩みもなく、たたみかけるように、しかし表情は豊かに実に素晴らしい展開となっている。


16 不器用な女 

 「初恋のニコラ」のB面。今このタイトルを見ると、その後を含めて彼女自身の生き方を表しているようで、非常に暗示的だが、曲はテンポも良くけっして暗いわけではない。また、やはりタイトルから歌謡曲的な印象も受けるが必ずしもそうではない。たしかに曲調が地味で、彼女のうたの本来の輝きはないが、こねくりまわさない直截な彼女のうたが不器用な生き方しかできない「私」の心をデフォルメせずに表していると言えるだろう。


17 私が雪だった日

 1979年の歌手復帰があまり成功せず、シングル2作のあと、80年にはワタナベプロとの契約も解消してしまう。その後のブランクを経て、81年9月に再再デビューし、82年9月に4年ぶりにつくられた新曲がこの曲であり、結果的に現在のところ最後のシングルとなっている曲である。
 この曲は彼女自身を歌った曲とよく言われる。たしかに「私が雪だった日」は「私が(白)雪(姫)だった日」ともとれるし、歌詞もなんとなくそう思わせるところがある。ただ、作詞者が実際そう考えたのかは分からないし、彼女がどう考えて歌ったかもわからないが、私自身はそういう背景的なことからうたを解釈するのは好きではない。もっと自由に、ことばと音楽そのものから聴こえるものに耳を傾けたい。
 そういう意味ではこの曲はとてもあたたかい歌だ。この曲は今風というか、歌詞がメロディーにのって歌われるというより、歌詞の抑揚がそのままメロディーになったような、つまり語りに近いメロディーだ。70年代までの曲はメロディーが曲の魅力のカギとなっていたと思うのだが、80年代以降は歌詞が前面に出てメロディー(音楽)はBGMのようになってしまい、それが<歌>をつまらなくしてしまった、というのが私の印象だが、この曲もその意味ではかつての彼女の曲のように、メロディーに翼が生えて自由自在に飛翔するような曲ではない。しかし、彼女のニュアンス豊かなうたが聴く者の心を包み込むような歌になっている。
 ここでの彼女の声にかつてのような輝きはない。ややかすれたところも見える。しかし、かつてのようなまろやかなあたたかさではないが、浸みこんでくるようなあたたかさがある。それが「あたたかい雪にもう一度なるわ」という歌詞を実感あるものにしている。この歌詞は純粋に言葉としてみればいろいろの解釈が成り立つのだろうが、彼女の声で歌われれば、じわーと心をやさしく包んでくれる。言葉の解釈がなくても感覚として「あたたかい雪」を感じさせるのだ。歌詞通り、彼女のやさしさ、あたたかさが疲れ切ったいのちを抱きしめ潤してくれるうただ。


18 今は想い出

 「私が雪だった日」のB面。「セピアの街角に」という冒頭の詞のとおり、「壊れかけた車で夢を追った」青春の日を想う歌だが、「最後まで長い髪を切らず」去って行ったかつての恋人に託して70年代という時代を歌っているともいえる。『いちご白書をもう一度』では「ぼく」は就職が決まって髪を切り「もう若くはないさ」と現実社会に適応していったが、この「あなた」は現実社会に対峙して生きる道を選んだのだ。この曲はこの「あなた」に託して、ひたすら働いて豊かな生活を築こうとする80年代の日本に対し、「愛と自由」を大事にして<個としての幸せ>を生きようとした70年代の若者の生き方を対置しているのだろう。日本には“もうひとつの道”があったことを訴えているともいえる
 彼女のうたはやさしさと懐かしさに満ち、恋人への変わらない愛を通して、もっとずっと自由があったその時代と自己の青春をそっと抱きしめているようだ。


19 クラス会  

 プレミアムボックスで初めて陽の目を見た歌。ずっとワタナベプロの倉庫に眠っていて偶然に発見されたのだという。レコーディングされたのは『愛のアルバム』と同じ日らしい。それがプレミアムボックス発売にあわせるように「発見」され、しかも「ポストに一枚、はがきが届いたわ」という、まるでシチュエーションがぴったりの歌とはあまりにできすぎで信じられないくらいだが、まさに時を超えた彼女からの贈り物だ。
 初めて聞いたときは前奏部分がテレビのホームドラマのテーマ曲のような雰囲気で「え?」と言う感じだったのだが、彼女のうたが入ってくると、ジワーっと幸福感が広がってきた。何とさわやかで、なつかしく、やさしい歌声なのか。これはまさに「天地真理のうた」だ。最初の部分のメロディーなど、ほかの人が歌えばちょっと演歌ぽくなってしまいかねないが、彼女は実にさわやかにノーブルに歌う。まるで真白な薄絹が風に舞っているような軽さ。彼女はいつにもまして丁寧に丁寧に歌っていて、しみじみとした情感が静かに広がっていく。心洗われる一曲。


20 秋ふたたび

 2018年の新ボックス「私は歌手」で初めて公開された5曲のうちの一つ。レコーディングは1974年6月30日ということで、タイトルからしても秋発売のシングル候補の一つだったのだろう。結局「想い出のセレナーデ」がシングルA面となり、この曲はB面にもならずそのままお蔵入りしてしまったようだ。しかし今聴いてみると十分シングルA面になりうる魅力的な歌と言える。
 曲調はフォーク的だが、彼女のうたではあまりないタイプのうたで、ややハスキーな声でささやくように聴く者に直接語りかけてくる。表面は抑えられ淡々としているが、すみからすみまですべての言葉に想いがこもって懐かしさが沁み出し胸を熱くさせる。表面は抑えながら熱い想いが次第に高まり最後にあふれ出る。例えば「遠くさえぎるよな」のたった一言にも憧れと燃える想いがこめられているのがわかるだろう。彼女のオリジナル曲でも名唱の一つと言っていい。


21 早春

 これも「私は歌手」で初めて公開された曲。録音は1974年10月21日。
 明るく軽快な曲だが、歌詞からすれば寂しさを歌ってる。作曲者加藤和彦はそこに敢えて明るい曲をつけた。そこに加藤の“天地真理観”を見ることができるのかもしれない。そして天地真理のうたはそうした矛盾を美しく調和させている。
 冒頭から青空のような澄明な声と語尾を弾むようにはね上げる歌い方に魅了される。その一つ一つに豊かなニュアンスがあり、音のすべてに<心>が行き渡る。言葉の”意味”を脳が反芻しなくても彼女の声自体が<陰影ある明るさ>を感じさせて、心弾ませながら涙がにじむという彼女のうたの最良の表現がここでも聴くことができる。


22 若い合唱(コーラス)

 これも「私は歌手」で初めて公開された曲。録音は1975年1月29日。
 マーチ風の元気な曲で、当時よくあった青春ドラマの主題歌のような趣さえある。作曲が同じ川口真の「京都でひとり」と同じ頃の録音であり、どうしてこういう曲が作られたのか不思議な感じがする。しかし同じくマーチ風の「青春のうたごえ」のように元気はつらつというわけではない。同じように生き生きとしているが、「青春のうたごえ」の決然とした明るさに対し、美しいニュアンスが香る歌になっている。生気と楽しさに満ち、同時に一つ一つの言葉に豊かな表情がある、これが天地真理のうたの魅力なのだ。


23 想い出のセレナーデ(歌詞、アレンジ違い)

 これも「私は歌手」で初めて公開された録音である。「私は歌手」の解説によると、この曲は元々は「青春のセレナーデ」というタイトルで「恋と海とTシャツと」のB面として企画されていたものだそうである。ただ録音は1974年7月18日となっており、「恋と海とTシャツと」(1974年6月1日発売)のB面というのはつじつまが合わない。実際はこのバージョンを次のシングルにしようと録音されたが、少し物足りないということで修正されてシングル版「想い出のセレナーデ」になったのではないかと私は推測するのだが、どうなのだろうか?
 それはともかく、シングル版との違いは、一つは2番の後半の歌詞が違っていること、もう一つは編曲が馬飼野俊一版であることだが、聴き慣れた「想い出のセレナーデ」とはだいぶ違う印象がある。
 その一番大きな要因は馬飼野版のアレンジにあると思うが、やや饒舌な印象を受ける、その分、天地真理の<うた>がやや平板に聴こえるように思う。シングル版の竜崎孝路のアレンジの方が陰影があり抑制的で彼女の<うた>がくっきりと聴こえてくるように思う。歌詞も、こちらの歌詞では、それまで自分の心情を切々と歌っていたのに最後に突然第3者的な評論じみた内容になっていて違和感がある。やはりシングル版の方がシンプルだが「歌」としての完成度は高いと思う。とはいえ、それは比較の問題で、これはこれで十分美しく楽しめる歌だ。

24 トルコ行進曲

 これも「私は歌手」で初めて公開された録音であるが、1974年9月15日の九段会館でのコンサートでのライブ録音である。このコンサートはライブアルバム「天地真理オン・ステージ」で聴くことができるが、そこに収録されなかったもので、原曲はもちろんモーツァルトのピアノソナタ イ長調 K331の第3楽章、いわゆる「トルコ行進曲」である。
 天地真理はピアノもかなり弾ける人であったが(ショパンやバッハを弾いた録音もある)、これはスキャットである。この曲のスキャットと言うと由紀さおり・安田祥子姉妹のものが有名だが、「私は歌手」の解説によるとそれは1980年代に入ってのことで、ここでのスキャットはそれよりずっと早く、当時ヨーロッパで「スキャットの女王」として知られていたダニエル・リカーリにヒントを得たものではないかということである。実際にダニエル・リカーリの「トルコ行進曲」と比べてみると、天地真理の方はより”ピアノ的”な印象を受ける。ダニエル・リカーリはスキャットと言いながらかなり「歌って」いる。ピアノはある意味で打楽器なのだが、時々弦楽器的な動き(音と音がつながる)が見られ、言葉はないが歌っていると言っていい。由紀・安田姉妹の場合でもそうなのだが、天地真理の場合、そういうところがほとんどなく、(彼女ががこの曲をピアノで弾いたことがあるかどうかわからないが)ピアノで弾くように歌って(?)いるように思う。
バックコーラスのスキャットと比べれば、彼女の豊かな音楽的素養をうかがい知ることができる。


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